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07.『再撰花洛名勝図会』跋文(翻刻)
(跋文)
山川のすがた、宮寺の有かたちどもを、常に見廻りて、やがて図に写しもて其處にいたり、遊ばん人の杖、栞ともなし、また都に近き大和河内などの國々なる、往昔の大宮所のありし跡のさだかならぬをたづね索め、はた、いともかしこき御陵どものうづもれたるをも土地に考へ、書に徴してかき著はしつヽ、家に秘めもたまへる翁あり。はやう公の仕へを退きてより、大かたかヽるすぢの事をのみつとめにして、いそしみ物せらるヽうちにも、ちかきころ遠き近き國々の名勝図会てふ物の世にもてはやさるるにつけて、我都のが殊に麁めなるを深く慨歎て、其を増益せむ事を悶ひかけられしに、すべて図会は画をむねとするものにしあれば、筆才に長たる画工のあらでは成がたかるを、幸ひに小澤華嶽・井上左水などいふ翁の友だちのうちに巧手のありしかば、いさかうやうに事うちあひたる時をうしなはめやとて、此名勝図會の再撰は思ひおこされしに、幾ほどもなく其二人の画家のあたらしくも、筆のいのち、毛絶にしかば、今は便なしとおもひくづおれて、自らの稿をもかいやられしに、一とせ浪華に物せられしをり、かしこにて暁晴翁が摂津名勝図会大成といふ書の稿成て、其画を松川半山がかきたるを見られしに、いたく巧みに精細く写し出たり。あはれさることヽぞあなれ。安永の昔、籬嶋主が始て都名所図会を著しけるに、其頃平安にも名高き画工の多からぬにはあらざりしかど、かの図会に筆とるものヽなかりしにや。浪華の竹原春朝斎が写しもてたる図をとりてこと調ひたりとか。このあとをためしにて、今此安政の撰も同じ郷なる半山をして画がヽしめむにはとて、やがて伴ひ帰りて、日毎に洛東の寺社はた旧跡どもを写さしめらるヽに、其日数七日が中に五十枚余りの稿成りけり。翁深く喜悦びつヽ猶其足ざるを東居、春翠などに補はしめて、扨其詞書を暁晴翁と余に誂らへて書摺らせ、はた其繁きを刪り、誤れるを自ら正しなどして、纔に一とせ余りにして此洛東の編、功を奏られけり。斯て巧なる版木師におほせて、散ことしらぬ櫻木に花の都の花を咲せ、千里の外にも匂はしめんとせられしは、翁の大き功といはざらんやは。翁、都の西、耳敏川の邊に住て、耳順ふの春秋をとく超つヽ、古にも稀とならん齢にしも近けれど、寒暑をいとはず倦る色なく勉強給へりしも、また平安の一花といふべからんかし。
安政六年祇園御霊会の後の日 川喜多真彦誌