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13.伏見稲荷と伴蒿蹊

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 伏見稲荷大社は東山三十六峰の最南端に位置する、全国に四万社ある「お稲荷さん」の総本社である。「お稲荷さん」といえば狐、ということになるが、伴蒿蹊は随筆『閑田耕筆』のなかで、両者の関係について考察している。大略すると以下のようになる。
 狐を稲荷明神の使いとする、ということについて述べた書物は無いが、ある書物には「みけつ御食津」の神、と記されていた。これは稲荷の神の本号で、「三狐」の字を当てたのだという人がいた。また、狐は「きつね」と読む以外にも、「くつね」「けつね」ともいう。田舎の人か、あるいは古い時代には「けつね」と読んだ。云々。
 上方では、甘く煮たお揚げさんの入ったうどんのことを「きつねうどん」、少し年配の方なら「けつねうどん」という。江戸時代よりも以前の言い方に倣えば、「けつねうどん」も正しい呼び名ということになる。
 さて、上田秋成、皆川淇園のひとつ年長者であり、『近世畸人伝』の著者として知られる蒿蹊は、歌人としての評価も高い人物であった。橘南谿の随筆『北窓瑣談』には以下のように記されている。

京師、地下の和歌四天王と世に称するは、澄月、蘆庵、大愚、蒿蹊なり。
さらに、
蒿蹊は澹泊を専一にして、言外に余情を志す、高上の風体なり。又、和文をよくして、当今第一と称す。
と続く。近世後期の京都、地下歌人のなかで四天王と謳われたのは、澄月、小沢蘆庵、慈延、そして蒿蹊である。和歌のみならず和文もよくする文章家であった、と南谿はいう。
 蒿蹊の門人の一人に、『都名所図会』の著者で知られる秋里籬島がいる。籬島は師への賛嘆をこめて、自著である名所図会本のなかに蒿蹊の詩歌を多く引用している。そのひとつ、『都林泉名勝図会』巻三に載る「稲荷社 初午詣」と題する挿絵に掲げられた詠歌。
初午のけふにあひてはいなり山 はななき杉も人にをらるる
 花を手折るということは、王朝の時代より和歌や物語のなかで多用されてきたモチーフのひとつ。初午の日に稲荷社に参詣する篤信者は、神木である杉の木を「験(しるし)の杉」として持ち帰る。この歌は、稲荷社の杉は花は咲かずとも人々に手折られることを詠んだものである。そもそも、手折られる花とは女性のことを指す。けれども、初午の日の稲荷社では「花より団子」ならぬ「花より御利益」、という有様を詠んでいるところがこの歌の趣向。
 妙法院宮眞仁法親王に寵遇された蒿蹊は、洛南の地から妙法院近辺に居を移したのが寛政3年(1791)、58歳のとき。『近世畸人伝』が出版された翌年のこと。この法親王を中心とした文芸サークルを通して当代の文人たちと交わった蒿蹊は、文化3年(1806)に没する。奇しくも、翌年には歳を同じくして淇園が没する。両者、ともに享年73歳であった。

From:『きょうと』35号(2002年12月)