02. 名所図会にみる宇治の風景
——江戸時代の書物をてがかりにして
「文化」は多くの人がある価値観を共有することで成り立つものだといえます。価値観の規準を何とするかによって「文化」は変化しうるものでもあります。宇治の文化的景観を考えるうえで、江戸時代に照準をあわせてみるのはそう的外れなことではないでしょう。では江戸時代の宇治はどのような土地として人びとに認知されていたのか、当時の地誌や日記、随筆などをてがかりに探ってみましょう。
オランダ商館付きの医師であるエンゲルベルト・ケンペルは、日本滞在中、将軍に謁見するため長崎と江戸を往還しています。その行程の詳細については『江戸参府旅行記』に記されていますが、元禄4年(1691)2月28日の条には「最上の茶を産し、それを毎年将軍家に献上するため幕府に納めるので、日本中に知られていた」とあります。この記述から、宇治が将軍家に献上される高級茶の産地として広く知られていたことがわかります。おそらくはオランダ人たちに随行した役人らがわざわざこのように紹介したのでしょう。〈宇治=茶どころ〉のイメージは江戸時代中頃にはすでに定着していたのです。
それから100年ほど後、安永9年(1780)に出版された地誌『都名所図会』は文章と挿画によって宇治の名所を紹介しています。挿画には名所の鳥瞰図や人びとのくらしを描く風俗図などあるのですが、宇治の場合、茶摘みの風景のほかに、宇治川での鮎汲みの挿画や、蛍狩りの挿画が収載されています。宇治は茶どころであるばかりでなく、当時の人びとを惹きつけるに足る遊興の地として認知されていたことがわかります。こうした『都名所図会』にみられるような宇治のイメージは、幕末期の文久元年(1861)に出版された地誌『宇治川両岸一覧』にもあらわれています。特に、宇治川に関して「当国(山城)第一の大河」としたうえで、「まことに当国南方の奇観なり」と紹介しています。これらの地誌によって、宇治川が人びとの味覚や視覚などを満足させる場所として認知されていたことがわかります。
長州出身の国学者近藤芳樹は『梅桜日記』の文久元年2月22日の条で次のように記しています。
今は桜狩にも鮎つりにも、都の人のまづ赴くはこゝにしあれば、荒ましき浪のひゞきも、おのづからのどかなる御代の春の声になりて、きゝうくもあらざりけり。たゞ柴つみの舟のくだるを見てぞ、おのおの程なき世のいとなみどもの、はかなき水のうへに浮かびたる、誰も思へば同じことなる世の常なきなり、と源氏の物語にかける。げにと打歎かれける。この頃の宇治は、観桜や鮎汲み、さらには宇治川の流れを楽しむために、京都の人びとが気軽に足を運び、さらに、古歌に詠われた名所であり、『源氏物語』の舞台である土地としても知られていたようです。このような宇治に対するイメージは、ほぼ現在のそれと重なるように思われます。
同じく、文久元年に出版された暁鐘成の『雲錦随筆』は、宇治川流域の名所とともに宇治橋から上流の瀬田唐橋にかけて点在していた奇岩、奇石類を、詳細な挿図によって紹介しています。こうした岩石類の様子を現在では興聖寺門前の亀石くらいにしか見ることはできませんが、かの本居宣長も『都考抜書』のなかで絶賛した宇治川上流域の眺望は当時の文人墨客たちをも魅了していたのです。
こうした江戸時代の書物にみるような宇治の「文化」のなかには、すでに失われてしまったものもあります。けれども、いまだ残されている「文化」は時代に応じて変化しつつ、いまもわたしたちの眼前にあるのです。それらにどのような価値を見いだし、存続させていくかのか。文化的景観を考えるためのヒントは、こうした先人達の書物のなかにも隠されているのです。
——「宇治の文化的景観連続フォーラム」報告(2007年12月)