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02.余寒忘るる梅の花

Source: 『都林泉名勝図会』巻三

~伏見梅渓~

 伏見は「伏水」ともいい、水、清く豊かであることから、江戸時代より酒どころとして広く知られている。ちなみに、「桃山」は、元和9年(1623)に伏見城が廃城となった後、桃が植樹されてからの名称。
 伏見は、洛中よりも気候が温暖なので、果実の栽培に適し、また、水運の港としても栄えていたので、商品の流通がスムースに働いていた。豊かな水と温暖な気候、交通の便利さから、桃ばかりではなく、梅が多く植えられていたこと、『都林泉名勝図会』の本文に記されている。「五郎太町、福寿庵、大亀谷、八科嶺」にかけて、つまり、城北の一帯が「梅渓」であったことが知られる。
 江戸の随筆家、津村淙庵は、寛政5年(1793)にこの付近を散策している。(『思出草』)

野みちにかゝるほと梅いとおほく、咲きたる ところあり、梅谷といへる村なり。ひきつゝき桃の樹あまた十町はかりはさなからうへつゝけたるわたりをすく。
 淙庵は、伏見城の鬼門に祀られている御香の宮(現、御香宮社)を詣で、その南門を出て五郎太町に向かっている。そして、「桃山」を実感したのである。
 絵の中央手前の石碑に「福寿くわんせおん」、奥に「桃山新善光寺」(龍雲寺)の文字。ということは、この絵は城北より南西を眺めた景観ということになる。
 左手前のグループは、先頭の主人が刀を二本差していることから、武家の一行。奥方、娘御を伴っての観梅である。早春の肌寒いなか、一面の梅花(もしくは梅香)に、しばし「余寒」を忘れている様子。

From:『あけぼの』第34巻第1号(2001年 2月)