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42.「太間」と「絶間」、どちらが本当?

Source:『河内名所図会』巻六

 摂南大学寝屋川キャンパスへ向かう京阪バスに「太間公園」行きというのがあります。寝屋川市駅からみると「摂南大学前」の二つ向こうのバス停留所です。現在の地名は「寝屋川市太間町」ですが、国道1号線と太間町をつないでいるのは「絶間橋」です。キャンパスの近くにありながら、「国道1号線の交差点には太間と絶間があるけど、どちらが正しいの?」と疑問をいだく人は少ないのではないでしょうか。では、「たいま」と「たえま」、どう違うのでしょうか?
 むかしむかし、仁徳天皇の御代、淀川の氾濫を防ぐために堤防を築いたのですが決壊してしまうことが多くありました。ある夜、天皇の夢枕に神があらわれて、「武蔵国の強頸と河内国の袗子を人身御供にすればよい。」と告げられました。そこで、武蔵国の強頸が捕らえられ生贄にされます。続いて、河内国の袗子が捕らえられます。ところが、袗子は自分が生贄にされそうになると、「河の神の祟りによって、わたしは御供にされることになった。どうしても神がわたしを求めるというならば、この瓢を沈めて下さい。瓢が沈んだら真の神であると判断して入水しましょう。もしも沈めることができなければ、偽りの神と判断して私は生贄にはなりません。」といって、手に持っていた瓢箪を川に投げ入れます。すると、急に風が起こり、瓢箪を沈めようとするのですが、波にのまれながらも沈みません。やがて瓢箪は遠くへ流れ去り、袗子は死なずに済み、堤防だけが造られました。この堤防はそれぞれ、「強頸の絶間(断間とも書きます)」、「袗子の絶間」と呼ばれるようになり、どちらも決壊することはありませんでした。
 これは『日本書紀』に書かれている「袗子絶間」という説話のあらすじで、「絶間」とは堤防のことをさしています。江戸時代に出版された『河内名所図会』という本には太間が紹介されていますが、その中にもこの太間に伝わる「袗子絶間」の説話を描いた挿絵が載せられています。絵をみると、神妙な面もちで瓢箪を投げ入れる袗子の後ろで、天皇の使者たちがことの成り行きを真剣な顔つきで眺めているのがわかります。周りにいるのは堤防を造る土木作業の人たち。笑みを浮かべている人は、瓢箪は浮くものだとわかっているのです。つまり、瓢箪は中が空洞になっているので沈まない、それを利用した袗子の作戦を見抜いているのです。ちなみに、彼らの着物や髪型は江戸時代風、あくまでも説話の場面を空想して描いている絵なのです。
 「太間」という地名はこの「袗子絶間」の説話をもとに付けられたものなのです。ただ、「絶間」と表記すると「絶」の文字にマイナス・イメージを読み取ってしまうため、後世になって「太間」と改められたのだと言い伝えられています。ですから、「太間」も「絶間」もどちらの表記も正しいのです。ただし、古い時代には「絶間」であったのが、転じて「太間」となっていったのです。

From:『国際教養リーフレット』Vol.3(摂南大学国際言語文化学部国際文化環境教室・2004年10月19日)