名所図会学とその周辺 > 

01. 『都名所図会』と京都——観光の萌芽

 江戸時代の京都はどのような土地としてイメージされていたのであろうか。当時のベストセラーともいえる『都名所図会』を嚆矢とする名所図会類を手がかりに探ってみたい。
 名所図会類(名所図会や類書)は安永九年(一七八〇)刊の『都名所図会』を皮切りに、明治時代中頃まで数多く出版された。これらは地誌として分類され、いわゆるガイドブックのような役割を担っていたとされている。当時、すでに出版されていた古版地誌類に比較して、情報量が格段に充実し、挿画も写実的(あるいはそれに近い描き方)である点に特徴がある。この名所図会類のうち、京都だけを取り上げたものが四種類ある。『都名所図会』と、その続編的性格をもつ天明七年(一七八七)刊の『拾遺都名所図会』、名庭や景勝地を中心に編まれた寛政十一(一七九九)刊の『都林泉名勝図会』、集大成を目指すも未刊に終わった文久二年(一八六二)刊の『再撰花洛名勝図会』である。このようにひとつの地域に対して複数の名所図会類が出版されることは、他に例のない、京都にだけみられる特徴である。

 ところで、『拾遺都名所図会』巻二「左青龍」の巻頭の扉絵には年配と中年の男性が荷物持ちの少年を連れて旅する姿が描かれている。彼らは冊子を手に、小高い場所から名所の位置を確認している様子である。画賛の狂歌は著者秋里籬島の作で、「名どころはこれを都の案内者 圖會はしらとも思ふうつし画」とある。京都の名所を知るうえで「名所図会」は「都の案内者」として役立つものであり、また、名所そのものを知らぬ者であっても「名所図会」をとおしてヴァーチャルに観ることができる、ということを詠んでいる。挿画の旅人のように実際に名所をめぐる手引きとするもよし、狂歌にあるように紙上を旅するもよし。いずれにせよ、京都は人びとを惹きつけてやまない名所が多数に存在する土地として描写されていることがわかる。
 そもそも「名所」とは「などころ」であり、歌枕をあらわす用語であった。名所図会類の「名所」項目は「などころ」であることを基準に選定されている。しかし名所図会類には「などころ」の範疇にない項目も散見される。このような例外は時代が下るにしたがって増加する傾向にある。いわば「などころ」ではない「めいしょ」が取り上げられるようになったのである。「めいしょ」とは、江戸時代(あるいは近世)になってあらたに注目されはじめた「観光」の対象としての「名所」である。京都にやってきた旅人たちは「などころ」のみならず「めいしょ」をも楽しんだはずである。今日ある「観光都市、京都」のイメージは、名所図会類のなかにもその萌芽をみいだすことができるのだ。
 このように、江戸時代の京都は「などころ」から「めいしょ」へとイメージが拡充され、たんなる古都ではなく、観光都市としてひろく認識されるようになったのである。複数の名所図会類が出版されたことや、旅人の視線を巧みに利用した構成なども、その傍証であるといえよう。政治的な中心こそ江戸に奪われはしたが、文化的な中心としていまもなお機能し続けていることをまるで誇示するかのようでもある。果たして、この観光都市へのイメージの転換は、その後の京都にとって非常に有効であったことはいうまでもない。

——『京の歴史・文学を歩く』勉誠出版(2008年7月刊行)